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その31 [第7章 悲しき骸]

 その日、ねずは、お昼だというのに公園にも行かず、めずらしくベランダでぶち子と過ごしていた。

北風はまだ冷たいけれど、久しぶりにいいお天気。
ベランダいっぱいに降りそそぐ日ざしがぽかぽかと暖かくて、
まるでねずとぶち子のベランダにだけ一足先に春がやってきたような気分。
このところツンツン・モードだったぶち子も、今日は朝から機嫌がいい。

「こんな日はお出かけせずに、ベランダでのんびり昼寝するのがいいよね」
・・・ふたりが、ふたりして、そんな幸せな気持ちになれる、とびっきりのお昼だった。


 ベランダの日だまりでとろとろとまどろんでいたねずは、トントンと
マンションの階段を登ってくる足音で目が覚めた。マンションの外階段を、ふたりの人間が登ってくる。
足音は二階の踊り場で止まり、オフィスのガラス扉が重そうな音とともに開かれる。

「こんにちは、川嶋です」聞き覚えのある声がした。

 地域猫ネットワークの川嶋さんの声。ねずはすこし緊張して、耳をすませた。

「あっ、猫ちゃん、帰ってきました?」こちらは、二階のオフィスの若いお姉さんの声。
オフィスの玄関先でねずやぶち子を見かけると、おいでおいでをしたり、煮干しみたいなおやつを
投げてくれたりする、いい人である。その声を聞くと、ねずはちょっと小腹が空いた気がして、
階下の様子をのぞいてみたくなった。

 三階のベランダは、二階のオフィスの玄関のななめ上に張り出している。だから、ベランダの柵から
頭を突きだしてのぞき込めば、玄関の様子をほぼ真上から眺めることができるのだ。

ねずは、のそのそと起きだして、二階が見下ろせる柵のそばへ移動した。
通りがけにちらりと猫箱に目をやると、ぶち子がなかで気持ちよさそうに眠っている。
ねずは起こさないように足音をしのばせて、柵のすきまからそっと階下をのぞいてみた。

 オフィスの玄関先にお姉さんと、もうひとり、
やはり猫にやさしい女社長さんがでてきて、川嶋さんと話をしている。
川嶋さんの後ろには、胸元に段ボール箱を抱えて、見知らない青年が立っていた。

「ほんと、こんなことになっちゃって・・・」川嶋さんが、悲しそうな声で言った。

「いったい、どうしちゃったんでしょう?」女社長が、とまどったように言う。
お姉さんは涙ぐんでいて、もう言葉もでない。

「この子、具合が悪かったらしいの。獣医さんの話では、『横隔膜ヘルニア』だろうって。
 それも、かなり重い症状だったらしいのよ。『横隔膜ヘルニア』っていうのは、
 心臓や肺のある胸の部分と、胃や腸などがあるお腹の部分を仕切っている横隔膜が破れて、
 お腹の内臓が胸のほうに入り込んできちゃう病気なのね。
 入り込んだ胃や腸のせいで心臓や肺が圧迫されるから、呼吸がうまくできなかったり、
 心臓の働きが鈍ったりするの。だから、避妊手術のための全身麻酔をかけたら、
 とたんに呼吸がみだれちゃったらしくて、そのまま・・・。先生が言うには、これほど重症なら、
 なにか兆候があったんじゃないかっていうんだけど」

「そういえば、この子、ときどきハァハァって、苦しそうな息をしてることがあったみたい・・・」
お姉さんが消え入りそうな声で言う。
「病気だったのに、わたし、気付いてあげられなくて。わたしが、ちゃんと見てればよかったのに」

「そうだったの・・・でも、あなたのせいじゃないわ。
 ノラの場合は、病気かどうかの判断がほんとうにむずかしいのよ。日頃の様子を
 ずっと見ていてあげられるわけじゃないし、猫は痛いとか苦しいとか、言ってくれないしね。
 でも、この子は幸せだったと思うわ。先生のお見立てでは、このまま放っておいたら
 半年もたずに死んじゃうだろうって状態だったようだし、『横隔膜ヘルニア』の場合、
 最期はとっても苦しむことになるんだって。でもこの子は、麻酔で眠ったまんま、
 苦しむことなく旅立って、こうして泣いて見送ってくれる人たちがいる。私たちはノラ猫の
 悲惨な最期をたくさん見てますからね、こんな幸せなノラはめったにいないと思うのよ」

そして、川嶋さんは、後ろに控えていた青年に言った。
「鈴木くん、それ、ちょっとここに置いてくれる?」

鈴木くんと呼ばれた青年は、抱えていた段ボール箱を、みんなのまん中にそっと置いた。

「猫ちゃんの亡骸、ご覧になります?とっても安らかなお顔ですよ」
「ぜひ、見せてください」女社長が答えた。

鈴木くんは、軽く閉められていた段ボール箱の四枚のふたを、ゆっくりとめくっていった。
全部めくられたところに、薄いブルーのタオルに包まれて、さくらママの白い亡骸が横たわっていた。

その姿は、三階のベランダから見下ろすねずの目のなかに、冷たく、ちいさく、痛ましく映った。

 ねずは、まばたきもできずに、凍りついていた。
死んだ猫を見るのは、生まれてはじめてだ。離れたところから眺めているのに、
さくらママがもう息をしていないし、しなやかさもぬくもりもないのが分かる。それどころか、
生きている動物なら、このぐらいの距離なら絶対に感じとれるはずの『気配』すら漂ってこない。

「さくらママには、もう、ナンニモナイ」と、ねずは思った。
段ボールの棺のなかに横たわる、そのうつろな『ナンニモナサ』は、
近づいてはイケナイ、触れてはイケナイ、なにか禍々しい暗闇のようにそこに渦巻いていた。


     ~その32に、つづく~


コメント(5) 
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コメント 5

ChatBleu

さくらママってタフで賢いニャンコだったけど、病気だったんですよね。
突然のことで、お辛かったと思いますが、苦しむことなく虹の橋を渡って
いけたこと、良かったと思いますよ。
by ChatBleu (2013-06-08 10:23) 

yonta*

もうずっと前、実家に猫が2匹いて、1匹が死んでしまった時、
残された子は、やっぱり近寄ってこなかった。
いつもは、やんちゃにじゃれついてくるのに、少し離れたところを
うろうろ、うろうろしていて・・・
「ナンニモナサ」を感じ取っていたんでしょうね。
さくらママ、苦しまなくてよかった。ひとりぼっちで、じゃなくてよかったね。
by yonta* (2013-06-08 11:50) 

かずあき

さくらママ、なくなりましたか。
悲しいですね。

by かずあき (2013-06-08 13:53) 

sarami

さくらママ、もともと病気だったんですね。残念ですが寿命だったのですよね・・・
ぼへ猫さんブログの方で仲良し親子を見たところだったので、悲しさも増します(T_T)
さくらママは自分の体が弱ってるのわかってて、早めに子離れしたのかもしれないですね。ぶち子ちゃんのそばにねずちゃんがいてくれてよかった。
by sarami (2013-06-14 21:49) 

ミケシマ

そうだったんだ…
さくらママ…
なんだか胸が苦しいです。
by ミケシマ (2020-06-22 23:38) 

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