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その28 [第7章 悲しき骸]

 このところのねずは、なんだか、やたらとテンションが高い。
毎日が充実した気持ちでいっぱいで、食べること、眠ること、遊ぶこと、探索すること、見張ること、
そういった生きることのすべてが楽しくてしょうがないといった風情だ。
ねずのテンションの高さは、どうも、なにがしかの『自信』によって生まれてきたものらしい。

そう、ねずは、ひとつ大きな自信を得たのだ。新入り・パクの手助けをしてやったことで。

 パクは、あれ以来、日を追うごとにこの土地になじんで、いまではリッパな公園猫である。
お皿オバサンのおかげで日々の食事には困らなくなり、先住猫にも存在を認められて、
追い散らされる心配もなくなったいま、
パクは、すこしずつ元気で活発な二歳のオス猫らしい明るさを取り戻していった。

公園の日だまりで、のんびりとくつろぐパク。
しなやかな白い身体を、長~く反らして伸びをするパク。
はしゃぎながら、大木の幹にぴょんと飛びついて、スルスルと登っていくパク。

・・・そんな姿を見るにつけ、ねずは、なんだかとても誇らしい気分になれた。
なんてったってパクは、ねずがこの公園に連れてきてやったのだ。
そして、またパクも、ねずに会うといつも礼儀正しくお礼を言った。

「ねずさんのおかげで、ぼく、すっかり公園の一員ですよ」

 ま、一歩ひいたところから眺めると、わざわざねずがお節介をやかなくても、
パクは遅かれ早かれこの地に居ついたにちがいない。置き去りにされた時点で、栄養状態のよい
健康優良猫である。しばらく食べるものがなくても、すぐに命を落とすことはなさそうだ。
性格も、けっして気は強くないが臆病すぎるほどでもなく、賢くておだやかで友好的である。

・・・争いを求めず、強いものには譲り、忍耐強く自分の番を待つ。
そういった身の処し方のできる猫は、ご町内の一員として受け入れられるのも早いのだ。
もちろん、ひとりぼっちでさすらう流れ猫もいるけれど、野っぱらに生きる猫だって、
どこかに安定した居場所を見つけて、仲間と暮らすほうがずっといい。

と、いうわけで、ねずは、毎日ちょこちょこと公園に出かけて行くようになった。
いまや、公園ゴハンだけが目的なのではない。パクを助けて自信満々、前途洋々、
鼻た~かだかのねずちゃんは、なにか自分にできる、もっと大きなことを探していたのだ。

そう、もっと、大きなこと・・・それって、たとえば、正義の味方・スーパーキャットになって、
ノラ猫世界の危機を救ったり? それとも、捨て猫撲滅運動をはじめるとか?
公園からノラ猫環境の保護を訴える? ま、ささやかなご町内のちっぽけな若猫に
いったいナニほどのことができるかなんて、そんなこと、猫神さまにだって、わからない。


 そんなこんなで、ねずが朝も昼も夜も、しょっちゅう公園に入り浸るようになって、
ちょっとおもしろくないのは、ぶち子である。・・・いや、ちょっとおもしろくない、どころではない。
いまやぶち子は、ものすごーく、すねていた。

 このところのねずは、ほとんどベランダでのんびりと過ごすことなどなく、
まさに夜中に寝に帰ってくるだけ(まるで、どこかのお宅のダンナさまみたい!)
深夜、猫箱で丸くなっているぶち子の横にもぐりこんでバタンキュー。朝はゴハンぎりぎりまで
寝坊して、窓の人が出してくれた朝ゴハンをせかせかと食べたと思ったら、もういない。
行き先は公園。遊び相手は、たぶんパク。あの、クリスマスに捨てられた、しみったれ祠猫である。

 「これって、どういうこと?!」ぶち子は憤慨する。

そもそもねずは、ぶち子のママが、かわいそうに思ってこのベランダに上げてやった猫なのだ。
ママが、子離しの時期になっても、ぶち子がひとりぼっちになってしまわないように、
ここに居ることを許してやった猫なのだ。それなのに、あんなパクみたいな子に夢中になって、
ぶち子を置いてけぼりにするなんて。ぶち子と遊びもせずに、ぶち子と昼寝もせずに、
ぶち子が毎日どうしてるか気にもせずに、ひとりで遊びまわってるなんて、許せない!
・・・それが、ぶち子の言い分である。

 つまり、ぶち子は、なんだかんだいって、ねずがそばにいてくれないとサビシイのだ。
もう、そろそろ生後十カ月。でも、まだ一歳に満たない、たったの十カ月。甘ったれのぶち子は、
まだまだママのやわらかいお腹の下にもぐずりこみたい時もある、ナイーブなお年頃である。

北風が寒くて、ちょっとセンチメンタルになった夜、くっついて温めあえるねずが隣にいてくれたら。
ベランダの下の裏庭から、おっかないデカ猫がにらみつけてくるとき、
いっしょにドキドキしながら寄り添えるねずがいてくれたら。
胸の奥底ではそんな風に思うのだけれど、ぶち子がそれを口に出して言うことは、絶対にない。

「ねずちゃん、サビシイから、そばにいてよ」ですって? そんなこと言うなんて、ばっかじゃない?

というわけで、ぶち子は、たまにねずがそばにいても、モノも言わずにふくれっ面である。
ねずといっしょであることがうれしいくせに、素直になれずに、むっつりむくれてツンツン冷たい態度。
このごろ、いつもぶち子をひとりぼっちにしていることへの腹いせのつもりなのだ。
あげくには、ねずだけ楽しそうにしているのも腹立たしくて、プイッとどこかへ出かけていく始末。

 ねずはねずで、そんなぶち子の胸の内など、まったく気が付かない。
たしかに、このごろ、ぶち子の態度はよそよそしい感じがする。でも、あの子は、もともと
気まぐれな猫なのだ。楽しくじゃれあってたと思ったら、いきなり噛みついたり。
いっしょに出かけようって言ってたのに、急にやめちゃったり。
公園に誘っても、どうせ行かないって言うし、もうこのごろは誘うこともしなくなった。
きっと、ぶち子は、ひとりで気ままにやっていきたい子なのだ。

およそ半年のつき合いのなかで、そんな風に感じていたねずは、ここにきてぶち子が
ツンツンしているのも、どうせいつもの気まぐれだからと、深く考えることもしなかったのである。
なにしろ、ねずはいま、
自分の世界をひとまわり大きく広げることに、すっかり心を奪われていたのだから。

・・・そんな折り、事件は起きた。


    ~その29に、つづく~


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その29 [第7章 悲しき骸]

 そもそもの発端は、パクである。

 ねずのおかげで(まぁ、一応はそういうことで)公園に居場所を得て、すっかり元気になったパクは、
二歳の、若くて健康なオス猫本来の野性を取り戻した。

 そろそろ二月も半ば、まだ寒いけれど、暦の上ではもう立春。
春の兆しに心が浮きたち、身体の奥のほうで本能がざわつきはじめる。
要するにパクは、エロに目覚めてしまったのだ。

 そして、こともあろうに、さくらママに恋をした。

 ぶち子にベランダを譲り渡してから、さくらママはしばらく公園のあちこちを点々と移り住んで
いたのだが、お正月以来、お気に入りの寝ぐらを見つけていた。
それは、ねずたちが暮らすマンションの、ひとつ下の階。二階のオフィスのベランダである。

 五階建てで、こじんまりしたマンションは、一階が店舗、二階がオフィス、三階から上が住宅である
一、二階と三階から上では建物の構造が異なっていて、住宅階のベランダは南側あるのだが、
二階のオフィスのベランダは西側にある。
東西に細長い建物の南東にあるベランダと西側のベランダは距離もずいぶんと離れていて、たとえ
マンションの上下の階といえども、三階のベランダから二階のベランダを見下ろすことはできない。
だから、ねずもぶち子も、さくらママが同じマンションの下の階のベランダに住みはじめたことなど、
ちっとも知らなかった。

 さくらママが二階のベランダを新しい寝ぐらに選んだ理由は、ふたつある。

まず、さくらママは、『ベランダ』という場所に味をしめていた。
ふつうのノラ猫だったら、ひとんちのベランダにはなかなか住みづらい。
だって、そこの人が出入りするし、見つかったらまず追っ払われるにきまってるじゃない?
でも、さくらママは、三階のベランダで出産して子育てまでやりとげた、いわばベランダのベテランだ。
しかも同じマンションなので、ここのオフィスの人たちとも顔見知り。
・・・「まさか、この私を、追っ払ったりするはずがない」と、さくらママは踏んでいた。

 ふたつ目の理由は、都合のいい段ボールの空き箱があったからだ。
その段ボール箱は、去年の暮れの大掃除のときに出されたもので、オフィスの人たちは
その箱を捨てるのを忘れたままお正月休みに入ってしまった。

段ボール箱は、都合よく横倒しの状態で放り投げてあって、横から自由に出入りできる。
北風も吹き込まない箱のなかは、丸まっているとふんわりと温かく、一日中暗くて、
外敵からもしっかり身を隠せる。まさに安心して赤ちゃんを眠らせておける理想的な環境だ。
・・・そう、さくらママは、次の出産にそなえて、二階のベランダに居を構えたのである。

 新しい寝ぐらが決まれば、次に必要なのは、子供たちの父親となるべきダンナ猫である。
したがって、さくらママは、本能のおもむくままにダンナ・ハンティングを開始した。

見つけなければならないのは、若く、健康で、すこやかな遺伝子をもつオス猫。
子供たちの将来のために、すこしは容姿にもこだわりたい。
とはいっても、マンションと公園を中心に半径五百メートル程度しかないさくらママの
ごくささやかな行動範囲のなかで、タマ取り済みでなく、血縁関係も近すぎない若いオス猫が、
それほど多くいるわけでもない。
さくらママが新入りのパクに白羽の矢を立てたのも、当然のなりゆきというものだった。

     ~その30に、つづく~


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その30 [第7章 悲しき骸]

 一方、パクはパクで、身体のなかでざわめきはじめた自分の本能に驚いていた。

そろそろ二歳になろうとするパクは、もう一人前の立派なオトコ。
もっとずっと早い時期にエロの衝動に目覚めていてもいいはずだったが、
他の猫とまったく触れあうことなく家のなかだけで飼われていたせいか、それとも単に奥手だったのか、
いままでオスとしての発情期を一度も経験したことがなかった。

それが、自然のなかに住みつき、大地や風の匂いから季節を嗅ぎとり、猫同士の交わりを知るうちに、
猫としての野生が甦った。そしていま、この早春の公園で、はじめての発情期を迎えたのだ。

 エロに目覚めたパクと、ダンナ・ハンティングのさくらママ。
同じ衝動に突き動かされたふたりは、野生のフェロモンによってひきよせられ、
あっという間に恋に落ちた。
そして、まったくもって騒々しいふたりの恋物語がはじまってしまったのである。

 恋物語のストーリーは、ざっとこんな調子だ。

さくらママがベランダで「おわぁ~、おわぁ~」と狂おしい声で呼ぶと、公園からパクが
飛ぶようにやってきて、一階のお店のテントをバリバリと引き裂きながらベランダに駆け登る!
狭っこいベランダでくんずほぐれつもつれ合って、鉢植えを倒し、ガラスのサッシ窓にもんどり打つ!
果てには興奮したふたりが、お店のテントを転がって、下の道路に落っこちる!

こんな騒動が、夜中だけではない、平日の昼日中から繰り広げられた。

 もちろんオフィスの人たちは、今年になって、さくらママがベランダに住みついたことを知っている。

「あの、三階で子供産んだノラ猫が、こっちに引っ越してきたね」
「寒いから、段ボールのなかがあったかいんじゃない?そっとしておいてあげようよ」
「お腹すいてるとかわいそうだから、キャットフードだしてあげようか?」

そんなやさしい会話が交わされ、朝も昼も夕方も、
さくらママ専用のお皿に山盛りのキャットフードが差し入れられた。そんな矢先の、大騒動である。
去年、別のベランダで子供を産んだメス猫と、もつれ合うオス猫と。
その組み合わせの意味するところは、まちがいなく新しい子猫の誕生である。さすがにこれを
見過ごしてしまうのはマズイんじゃないかと、オフィスの人たちが思ったのも無理はない。

 そこで、地域猫ネットワークの川嶋さん再登場である。
困ったオフィスの人に相談を受けて、窓の人が川嶋さんを呼んだのだ。ある日のオフィスで、
人間たちのひそやかな対策会議が開かれ、さくらママの『タマ取り作戦』が決定した。
もちろん、いずれパクのタマ取りもしなければならないのだけれど、取り急ぎ、
発情しているメス猫を避妊してしまわないと、別のオス猫と交尾してしまったらおしまいである。

 川嶋さんが言った。
「その子は、あの段ボール箱を寝ぐらにしているんでしょう?
だから、段ボール箱のなかに捕獲器を仕掛ければ、かんたんに捕まると思うの。
捕獲器は、猫がなかに入ったらバネ仕掛けで自動的に扉がパタンと閉まるようになっているから、
その猫がちゃんと奥まで入るようなら失敗せずに捕まえられるわ。
でも最初は警戒するかもしれないから、二、三日様子を見てみましょう。
猫が入っても扉が閉まらないようにストッパーをかけておいて、捕獲器のいちばん奥にゴハンを置いて、
それを食べるかどうか観察してみてください。奥まで入っていって食べるようなら、
すぐにでも捕まえてしまいましょう」

 結果は、すぐにわかった。
さくらママは最初、段ボールのなかに突然現れたスチール製の捕獲器の匂いをいぶかしげに
嗅いでは見たものの、奥に置かれた缶詰マグロの匂いを嗅ぎつけると、スタスタとなかに入っていった。
ためらう素振りなどみじんもなく、むしろ浮かれた足どりで。

そうして、ねずやぶち子のまったく知らないところで、
さくらママのタマ取り作戦は実行に移されたのだ。

 そして、その結末は、あまりにも大きな悲しみをもたらした。

       ~その31に、つづく~


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その31 [第7章 悲しき骸]

 その日、ねずは、お昼だというのに公園にも行かず、めずらしくベランダでぶち子と過ごしていた。

北風はまだ冷たいけれど、久しぶりにいいお天気。
ベランダいっぱいに降りそそぐ日ざしがぽかぽかと暖かくて、
まるでねずとぶち子のベランダにだけ一足先に春がやってきたような気分。
このところツンツン・モードだったぶち子も、今日は朝から機嫌がいい。

「こんな日はお出かけせずに、ベランダでのんびり昼寝するのがいいよね」
・・・ふたりが、ふたりして、そんな幸せな気持ちになれる、とびっきりのお昼だった。


 ベランダの日だまりでとろとろとまどろんでいたねずは、トントンと
マンションの階段を登ってくる足音で目が覚めた。マンションの外階段を、ふたりの人間が登ってくる。
足音は二階の踊り場で止まり、オフィスのガラス扉が重そうな音とともに開かれる。

「こんにちは、川嶋です」聞き覚えのある声がした。

 地域猫ネットワークの川嶋さんの声。ねずはすこし緊張して、耳をすませた。

「あっ、猫ちゃん、帰ってきました?」こちらは、二階のオフィスの若いお姉さんの声。
オフィスの玄関先でねずやぶち子を見かけると、おいでおいでをしたり、煮干しみたいなおやつを
投げてくれたりする、いい人である。その声を聞くと、ねずはちょっと小腹が空いた気がして、
階下の様子をのぞいてみたくなった。

 三階のベランダは、二階のオフィスの玄関のななめ上に張り出している。だから、ベランダの柵から
頭を突きだしてのぞき込めば、玄関の様子をほぼ真上から眺めることができるのだ。

ねずは、のそのそと起きだして、二階が見下ろせる柵のそばへ移動した。
通りがけにちらりと猫箱に目をやると、ぶち子がなかで気持ちよさそうに眠っている。
ねずは起こさないように足音をしのばせて、柵のすきまからそっと階下をのぞいてみた。

 オフィスの玄関先にお姉さんと、もうひとり、
やはり猫にやさしい女社長さんがでてきて、川嶋さんと話をしている。
川嶋さんの後ろには、胸元に段ボール箱を抱えて、見知らない青年が立っていた。

「ほんと、こんなことになっちゃって・・・」川嶋さんが、悲しそうな声で言った。

「いったい、どうしちゃったんでしょう?」女社長が、とまどったように言う。
お姉さんは涙ぐんでいて、もう言葉もでない。

「この子、具合が悪かったらしいの。獣医さんの話では、『横隔膜ヘルニア』だろうって。
 それも、かなり重い症状だったらしいのよ。『横隔膜ヘルニア』っていうのは、
 心臓や肺のある胸の部分と、胃や腸などがあるお腹の部分を仕切っている横隔膜が破れて、
 お腹の内臓が胸のほうに入り込んできちゃう病気なのね。
 入り込んだ胃や腸のせいで心臓や肺が圧迫されるから、呼吸がうまくできなかったり、
 心臓の働きが鈍ったりするの。だから、避妊手術のための全身麻酔をかけたら、
 とたんに呼吸がみだれちゃったらしくて、そのまま・・・。先生が言うには、これほど重症なら、
 なにか兆候があったんじゃないかっていうんだけど」

「そういえば、この子、ときどきハァハァって、苦しそうな息をしてることがあったみたい・・・」
お姉さんが消え入りそうな声で言う。
「病気だったのに、わたし、気付いてあげられなくて。わたしが、ちゃんと見てればよかったのに」

「そうだったの・・・でも、あなたのせいじゃないわ。
 ノラの場合は、病気かどうかの判断がほんとうにむずかしいのよ。日頃の様子を
 ずっと見ていてあげられるわけじゃないし、猫は痛いとか苦しいとか、言ってくれないしね。
 でも、この子は幸せだったと思うわ。先生のお見立てでは、このまま放っておいたら
 半年もたずに死んじゃうだろうって状態だったようだし、『横隔膜ヘルニア』の場合、
 最期はとっても苦しむことになるんだって。でもこの子は、麻酔で眠ったまんま、
 苦しむことなく旅立って、こうして泣いて見送ってくれる人たちがいる。私たちはノラ猫の
 悲惨な最期をたくさん見てますからね、こんな幸せなノラはめったにいないと思うのよ」

そして、川嶋さんは、後ろに控えていた青年に言った。
「鈴木くん、それ、ちょっとここに置いてくれる?」

鈴木くんと呼ばれた青年は、抱えていた段ボール箱を、みんなのまん中にそっと置いた。

「猫ちゃんの亡骸、ご覧になります?とっても安らかなお顔ですよ」
「ぜひ、見せてください」女社長が答えた。

鈴木くんは、軽く閉められていた段ボール箱の四枚のふたを、ゆっくりとめくっていった。
全部めくられたところに、薄いブルーのタオルに包まれて、さくらママの白い亡骸が横たわっていた。

その姿は、三階のベランダから見下ろすねずの目のなかに、冷たく、ちいさく、痛ましく映った。

 ねずは、まばたきもできずに、凍りついていた。
死んだ猫を見るのは、生まれてはじめてだ。離れたところから眺めているのに、
さくらママがもう息をしていないし、しなやかさもぬくもりもないのが分かる。それどころか、
生きている動物なら、このぐらいの距離なら絶対に感じとれるはずの『気配』すら漂ってこない。

「さくらママには、もう、ナンニモナイ」と、ねずは思った。
段ボールの棺のなかに横たわる、そのうつろな『ナンニモナサ』は、
近づいてはイケナイ、触れてはイケナイ、なにか禍々しい暗闇のようにそこに渦巻いていた。


     ~その32に、つづく~


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その32 [第7章 悲しき骸]

 ぎゃあ!

 ベランダをのぞきこんだまま、目をそらすこともできずにいたねずの脇で、ちいさな悲鳴があがった。

はじかれたように振り向いたねずの目に、ぶち子の姿が飛び込んできた。
ぶち子は、さくらママの亡骸をじっと見つめながら震えている。
目の玉が落ちるんじゃないかと思うほど大きく目を見開いて、息を詰め、身体をこわばらせて、
その振動がねずの身体をブルブルと揺さぶるほどに激しく震えていた。

 ねずは言葉もなく、ぶち子を見つめた。

ママっこのぶち子。いっしょに暮らしていなくても、ママが大好きだったのに。
ママのことを想うだけで、心がぽっと温められる、そんな大切なお守りだったのに。それなのに、
さくらママは『ナンニモ』なくなってしまって、もうぶち子の呼びかけに応えてはくれない。

「ぶっちゃん・・・」
ねずは、なんと声をかけていいか分からずに、ただただ震えるぶち子の姿を見つめているしかなかった。

 階下では、お姉さんが声をあげて泣きじゃくっている。
女社長もハンカチで目を押さえながら、さくらママの亡骸に話しかける。

「ごめんね、猫ちゃん・・・避妊手術なんかして。捕まえて、病院になんて連れて行かなかったら、
 こんなことにならなかったのに。ベランダで、もうすこし長生きできたかもしれないのに」

「でも、仕方なかったんですよ」川嶋さんがなぐさめるように言った。
「発情したオス猫に、ずっとつきまとわれていたんでしょう?そのままじゃ、絶対に子供が
 できてしまうし、子供ができれば、いくら病気でもこの子は産もうとしますよ。
 ノラ猫にとって出産は命がけですからね。産んだら、子育てもできずに、
 苦しんで死ぬことになったと思うわ」

「ほんとに、しつこく追っかけられてたんです。あの、頭のてっぺんに茶色のぶちがあるオスに。
 だから、猫ちゃん、かわいそうで。だから、避妊してあげればのんびり暮らせるかなって思って・・・」
お姉さんが泣きながら言った。

ねずの耳に、言葉がつきささった。
しつこく追っかけられていた? あの、頭のてっぺんに茶色のぶちがあるオス猫?

「パクだ!!」

ねずが心のなかで思うのと同時に、ぶち子が叫んだ。
ぶち子の震えは止まり、目の奥に怒りの火がともった。

 うぎゃぁぁぁお!

ぶち子はひと声、けだもののような咆哮をあげると、一気に怒りをぶちまけはじめた。

「どうしてよ、どうしてよ、どうしてよッ!どうしてパクのせいで、ママが死んじゃうのよッ!
 どうしてママが、あんな箱のなかで、動かなくなっちゃってるのよッ!
 パクのばかぁ!ママのばかぁ!ぶち子を置いて死んじゃうなんてぇ~!うぎゃゃゃゃ~」

悲しみの感情を怒りにかえて、ぶち子はひたすら叫びつづける。
そして、その矛先は、そばに寄り添うねずに向けられた。

「こんなの、みんな、あんたのせいっ!
 あんたが助けた、あのいやらしい祠猫が、ママにつきまとって、ママを殺したんだ!
 なのに、あんたは、あんなヤツといっしょになって遊びまわって!
 あんたなんて、ママが助けてやったのに!ママのおかげでこのベランダに居られるのに!」

ぶち子の感情は、ひたすら噴火しつづけた。
そして、とうとう、ぶち子はねずの目をにらみつけながら、言い放った。

「あんたがママを殺したんだ!あんたなんか、このベランダから出てってよ!
 もう、あんたの顔なんて、見たくないッ!」

そして、ぶち子は思いっきり体当たりして、ねずをベランダから隣のマンションの裏庭に突き落とした。

 どしん、ザザザザザザ、バキバキ、どすん!

ぶち子に突き飛ばされたねずは、ベランダから飛び出して、裏庭のツバキの木の上に頭からつっこみ、
そのまま根本まで落っこちた。
細い枝や葉っぱのクッションに受け止められたおかげで、どこにもケガはない。
ねずは、ふらふらと立ち上がった。
ぶち子に体当たりされた右肩あたりがすこしズキズキしたが、それ以上に心が痛かった。


      ~その33に、つづく~


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その33 [第7章 悲しき骸]

 ねずの心に、ぶち子の怒りが、ぶち子の悲しみが、トゲのように突き刺さっている。

パクのせいで、ぶち子の大切なさくらママは死んだのだ。
そして、パクをこの地に居つかせてやったのは、あろうことか、自分なのだ。

そんなつもりじゃなかったのに。さくらママを死なすことになるなんて、考えもしなかったのに。
・・・ねずの目から、涙があふれた。

どうして、こんなことになっちゃったんだろう・・・悔しくて切なくて、涙といっしょに、
抑えきれない感情があふれだした。

 パクに、会いにいかなきゃ。 パクに会って、どうにかしなきゃ。 パクに会えば、きっと、
どうにかなるにちがいない。そんな思いに駆り立てられて、ねずは、無我夢中で裏庭を飛びだした。

 公園へ、公園へ。 パクに会いに、とにかく公園へ。

はやる心が、ねずを急がせる。
あふれた涙はねずの目をかすませ、悲しみでいっぱいになった心が、ねずの耳をふさいでいた。

だから、公園の手前の道路にたどりついたとき、ねずは忘れてしまったのだ。
道路を走り抜ける、魔物のことを。道路を渡る前に耳をすまして、
ブォ~ンって鳴き声がしないかどうか確かめなきゃいけなかったことを。

裏庭からの坂を走り下りてきた勢いで、そのまま道路を突っ切ろうとしたねずの真横から、
いきなり魔物の雄叫びが聞こえてきた。
反射的に目を向けると、狭い道路にそぐわない猛スピードで、真っ赤な魔物がぐんぐんと迫っている。

ヤバい! ・・・とっさに思ったが、もう頭の中はまっ白だった。

そしてパニックに陥ったまま、ねずは、こういう場面で『もっともやってはいけないこと』をした。
ねずは、その場に立ちすくんでしまったのである。

 「立ち止まるな!走れ!」

公園の階段に寝そべっていたアイゾウさんの鋭い叫び声が耳をかすめたが、
ねずは金縛りのように動けなくなっていた。

見開かれたねずの目には、もう、魔物の真っ赤な色しか見えない。

 ドシン!

 大きな衝撃に、ねずは、はじき飛ばされた。
ふわり、と身体が浮きあがる。ねずは、そのまま宙を舞った。まるでスローモーションのように、
自分の身体が空中でゆっくりと一回転するのがわかる。

落ちていくねずの視界に、アイゾウさんの驚いた顔と、もうひとつ、飛んでいく白い物体がかすめる。
その物体は、ねずよりずっと激しく、大きく跳ね飛ばされて、公園の石垣にぶつかって
どさりと地面に落ちた。

 ねずは、歩道にしりもちをついて倒れながら、その光景を見ていた。
地面に落ちた物体は、頭のてっぺんに茶色のぶちのある白い猫。
いまは、鼻と口から血をながして、半分、赤く染まってしまったパクの姿だった。

 魔物に魅入られたように立ちすくんでしまったねずを、間一髪のところで、
公園から走ってきたパクが突き飛ばしたのだ。
そして、身代わりのように、パクが魔物に跳ね飛ばされてしまった。
パクを跳ねた魔物は、二、三十メートル先ですこしスピードをゆるめたものの、
「チェッ、猫、轢いちまったぜ」という捨てぜりふを残しただけで、
またブォ~ンという鳴き声をとどろかせて猛スピードで走り去っていった。

ねずは、しりもちをついたまま、動けなかった。道路をはさんで、地べたに横たわるパクの姿が見える。
パクは、二、三度、ピクピクとけいれんしたあと、全身から力が抜けたように
ぐにゃりと地面にへばりつき、そのまま動かなくなった。

その瞬間、ねずの内側のどこかとても深い部分に、恐れや驚愕やあきらめや悲しみといった感情が
ごちゃまぜになったパクの最期の思念がどっと押しよせて、はじけるように消えた。
そして、静寂。 つづいて、無。 いくら探ってみても、もう、パクにはナンニモナイ。

 公園の階段で一部始終を見ていたアイゾウさんが、パクのそばに駆け寄った。
前足でパクの身体を軽くゆさぶってみる。もちろんパクは、生き返るはずもない。
ふらふらと立ち上がって、道路を渡りはじめたねずに、アイゾウさんは怒鳴った。

「ねず、来るな!」鋭い口調で、ねずを追い返す。
「もう、いい。こっちへ来るな。パクは、死んだ。おまえは、助かった。だから、おまえは帰れ。
 おまえの居場所へ帰れ。ベランダへ、ぶち子のところへ帰れ」

ねずは、もう、どうすることもできなかった。混乱し、動揺し、打ちひしがれて、ねずは
途方に暮れていた。途方に暮れたまま、前に進むことも後ろに戻ることもできずに、
ねずは、道路のまん中で呆然と立ちつくしていた。


      ~第8章に、つづく~


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