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第12章 命がきえる ブログトップ

その59 [第12章 命がきえる]

 あくる日。幸か不幸か、その日はちょうど彼岸の入りである。
ふだんはまるでひっそりと静まりかえっているこの山寺が、一年でいちばん賑わいをみせる
春のお彼岸シーズンの幕が開くのだ。

 キン子さんが言っていたとおり、
このお寺では年に四回、ご先祖さまの御霊を供養する『ご祈祷会』という歳事が催される。
なかでも春のお彼岸のご祈祷会はいちばん盛大で、この日のために百日ものあいだ山にこもっていた
修行僧たちが寺を訪れ、水行をしたり、高らかな声音を響かせて読経したりする。

そのいかにも荒法師然とした姿や、水しぶきを散らしながら祈りを捧げる様は
なかなかのパフォーマンスで、地元の人たちやマニアな観光客までもが見物にやってくるのだ。
また、お寺の檀家さんたちが寄りあって山の守り木であるご鎮守さんのしめ縄を新しくする
一年に一度のお化粧改めの行事も、春のお彼岸の中日にとりおこなわれるのがしきたりなのだった。

 ヒメの寝ぐらを探して、墓地から境内中を駆けまわっていたねずは、
いつもとちがうお寺の様子にオドロキももの木!

まず、きのう、ようやくヒメを連れ出したほんの一、二時間後には、
ご鎮守さんのまわりには人だかりができていた。(ねずちゃん、間一髪だったね!)

脚立が運ばれ、おそろいの半纏を着た男たちが登ってなにやら計測したり、
ご鎮守さんの枝ぶりを確かめたりしている。 いく人かはそばに敷かれたむしろの上に陣取って、
湯飲み茶碗で一升瓶の酒をくみかわしたりして、みんないいご機嫌なのだ。
その一団は午後になると去っていったのだが、ふだんは夕方の五時になると閉められてしまうはずの
門がなぜだか夜になっても開け放たれているようで、境内や本堂には、
遅い時間になっても外からの人の出入りがつづいていた。

 今朝になると、お寺だけでなく、墓地のほうもなにやら慌ただしい。

夜明けどきの猫ゴハンまではふだんと変わった感じはなかったのだけれど、
日が昇って、九時を過ぎる頃になるとぽちぽちと見知らぬ人たちが訪れはじめた。

やってくる人たちは、老若男女に子供連れ。みんな片手に水桶やほうき、花束なども抱えている。
そして、みな、めいめいの墓石のまわりを掃いて墓石を水で清めたあと、花などを供え、
お線香の煙をもくもくとさせて帰っていくのだ。(ねずはお線香のニオイが苦手なんです)

 そんな事態に、ねずはもう気が気じゃない。
 「こんなに人間がやってくるんじゃ」とねずは思う。「ヒメたちがすぐに見つかっちゃうよぉ!」

とはいえ、ねずちゃん、心配はご無用。 ヒメたちの隠れているお墓は、
だてに落ち葉が、ここちよい赤ちゃんのベッドになるほどに積もっていたわけではないんです。

そのお墓は、全部で七~八十区画ほどある墓地のいちばん右奥のすみっこにあるうえ、
そのあたり三つ、四つのお墓がそろって寂れている。
まぁ、いまどきは、相続の問題や核家族化やナニやかやで、ご先祖さまのお墓とは遠く離れて
無縁に暮らしている人間も多い世の中。 これらはみな、そういった部類のお墓なのだ。

だから、ねずがお昼前に、お墓参りの人間たちに見つからないように、わざわざ墓地の外周を
ぐるりと囲んでいる生け垣のなかを忍び歩いてヒメたち様子をのぞきに行ったときも、
その一角はひっそりと人気のないままだった。

 お墓の区画をくぎったブロックの上にちょいと乗って、墓石の裏側をのぞきこむと、
ちょうどヒメたち親子の姿が真上から見える。
子猫たちはあいかわらずのおだんご状態で、ヒメもうとうとと眠っているようだ。

「ヒメ、ヒメ」ねずはあたりに気づかれないように、ささやき声でヒメを呼んだ。

「ああ、ねずさん」ヒメは頭を上げて、ねずを見た。
きのうはずいぶんと元気そうだったけれど、今日はすこし疲れているようにも見える。

「ヒメ、具合はどう?」
「ええ、大丈夫。子供たちも、みんな、いっぱいお乳を飲んでいますよ」

「なんだか今日は、お墓が、いつもとちがうんだ。人間たちがぞろぞろ来ちゃって。
 みんなお墓の掃除とかしてるし、こっちのほうにも来るかもしれないよ。
 だから、早めに引っ越したほうがいいと思うんだけど」と、ねずは言って、
ブロックの上から親子の脇の落ち葉だまりにストンと跳びおりた。

 近くに寄ると、赤ちゃん特有の甘ったるいような匂いがふわりと鼻につく。
それは決して不快な匂いではなく、胸の奥がほんわかと幸せになるような匂いだ。
 (ねずは、ふと、大好きなシュークリームを思いだした)

 ねずが跳びおりた気配で、赤ちゃんたちが目を覚ました。

「あっ、ごめん!」とねずは言ったけれど、もうあとの祭り。
おだんごがほぐれて、色のちがう三つの毛玉になり、
それぞれの毛玉がちっちゃな手足をバタつかせながらミゥミゥと鳴く。
ねずは人間たちに声がとどいてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたが、
毛玉たちはすぐにヒメの乳首を探りあて、それにむしゃぶりついて静かになった。

 ヒメとねずは、思わず顔を見あわせてにっこりと微笑んだ。
無邪気な命のカタマリは、いつだって、みんなの心をまあるくする。


     ~その60に、つづく~


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その60 [第12章 命がきえる]

 やがてヒメは、乳首を離した子供たちを一匹ずつ、口元に引き寄せて舐めはじめた。
飲みあふれたミルクでびちょびちょになった鼻面や口のまわり、背中やお腹、
細い手足や尻っぽの先まで、慈しむように舐めていく。 最後に、赤ちゃんのお尻をペロペロと舐めて
排尿と排便をさせ、おしっこやウンチはみんなヒメが舐め取ってしまった。

「赤ちゃんがちいさいあいだは」ヒメはねずに教えてくれた。
「まだ自分でおしっこしたりウンチしたりできないから、母猫が舐めてやらなきゃならないの。
 でもそれは、わたくしの水分補給にもなるんです。だから出産してしばらくは、
 赤ちゃんを置いて無理に水を飲みに行ったりしなくてもいいんですよ」

 へぇぇ、とねずは感心しきりだ。 タマ取り済みのねずには、一生経験できないことである。
「でも、ゴハンは?」ねずは聞いた。 ヒメは出産前から具合が悪くてほとんど食べられていないのに、
いまは赤ちゃんに母乳まで与えているのだ。「お腹はすかないの?」

「きのう、この子たちを産んだときに、この子たちを包んでいた羊膜や胎盤を食べたのですよ。
 それは、わたくし自身のからだの一部だし、血や養分がとっても濃いものなの。
 だから出産した母猫は、みんなそれを食べなきゃいけない・・・
 それはいま、わたくしのなかで吸収されて、この子たちのためのお乳になっているんだと感じます」

 そんなふうに言いながら愛おしそうにわが子を見つめるヒメの顔には、
すこしやつれた表情とはうらはらに、たくましいエネルギーが満ちていた。
『母ハ強シ』それは、子供を産むすべての女性に、天が与えたもうた特権である。

「今日、日が沈んで、人間たちが帰ってしまったら、ねずが見つけた場所に引っ越そうよ」
ねずは言った。
「ここじゃ、いつ人間に見つかるか分からないし、あっちの寝ぐらには屋根もあるんだよ」

「そうですね」ヒメも、できれば、もっといい場所に移りたいと思っている。
「いろいろと気づかってくれて、ほんとうにありがとう」

 ねずは、ヒメたちの無事を確認すると、またひとり墓地の入口へと戻っていった。
入口には、観音さまの石像の脇にちいさな道具小屋があって、
その屋根に登ればきっと墓地全体がぐるりと見渡せるにちがいない。
日が暮れるまで、ねずはそこから人間たちの様子をうかがっていようと思ったのだ。

ちっちゃな道具小屋の屋根に登るなんて、お茶の子さいさい・・・ねずは、小屋の裏に積まれている水桶を
踏み台にスルスルと昇り、トタン造りの屋根の上からひょいっと白線の鼻面をつきだした。
地面からほんの二メートルほどの高さではあるけれど、屋根から見下ろす風景は、
いつもの墓地とはぜんぜんちがう。 そばをすり抜けて忍び歩いているときは、すっぽりと身を
隠せるほど大きいと思える墓石も、こうして上から眺めてみると、ちっぽけな四角い石でしかない。
墓地にはそんなちっぽけな石がいくつもいくつも列をなして並んでいて、
二、三人連れの人間たちのグループが三つ、墓石の大行列のあいまをちょろちょろと動き回っていた。

視線を右手の奥にやると、ヒメが隠れている墓石がちいさく見える。 ここからではもちろん
墓石の裏にひそんでいる親子の姿は見えないけれど、もしあっちのほうに人間が向かうようなことが
あれば、サッとねずが先回りして危険を知らせることぐらいはできそうである。
今日のねずは信念に燃えて、決意も固く(!)ここに陣取っているのだ。

 ところでその日は、いよいよ本格的な春の訪れを思わせる、ぬくぬくとしたいいお天気で。
まぶしい陽光がねずの背中やトタン屋根にのんびりとふりそそいで、
そこいらじゅうをぽかぽかと温めている。(アブナイな~)
そのここちよさっていったら、それはもう、猫だけじゃなくあらゆる生き物にとって極上の眠り薬。
ぬる湯の温泉ほどにあたためられたトタン屋根の上で、ねずが完全にまぶたを閉じてしまうまで、
ものの十分もかかってないんじゃないかしら?(あっちゃー!!!)

     ~その61に、つづく~


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その61 [第12章 命がきえる]

 ギャー!バサバサバサ!グァッ!

あたりをつんざく甲高い叫び声に、ねずはハッと目を覚ました。
見上げると、頭上で二羽のカラスがもつれあって飛んでいる。
獲物をとりあって格闘しているのだ。殺気だった気配に、墓地に集まったほかのカラスたちも反応し、
墓地全体が騒然とした空気に包まれていた。

 あたりはもう日が陰ってきていて、そろそろ夕刻である。

やばい、眠っちゃったんだ・・・とねずは思った。
どのぐらい眠っていたのだろうか?(お昼からずーっとですけど)
もうお墓に人影はなく、カァーカァーと騒々しいカラスばかりがやたらと目立つ。
いつも、こんなにカラスがいたっけ?
ねずが不思議に思うほど、その日は墓地にカラスが集まっていた。

・・・それって、なぜだかわかります?
カラスどもは、人間が置いていったお墓のお供え物を狙っているのだ。
もちろん花になど興味はない。お饅頭やお干菓子など、どうぞとばかりに供された食べものに誘われて、
目ざとい近所のカラスたちが、人間たちがいなくなるやいなや一斉にやってきていた。

それでもお菓子のお供えなんて、それほど多くあるものじゃない。
集まったカラスどもの需要に対して、絶対的に供給量が不足しているのだ。
だから、限られた餌を奪いあって、小競り合いがいくつも起きた。

たいていは先手必勝で、先に餌を取ったほうが勝ち。負けた方はいさぎよく去ればいいのだが、
腹ぺこのままじゃ帰るわけにもいかないとばかりに鵜の目鷹の目で墓地を見まわし、
どこかに食べられそうなものが残っていないか、いついつまでも探している。

そんな光景をねずがぼんやりと眺めていると、
一羽のカラスがひょいと飛び立ち、ヒメの隠れているお墓のとなりの墓石にふわりと止まった。

 「!」 ねずはドキッとした。 まさか?
でも、そのカラスは、明らかにヒメの寝ぐらをのぞいている。
そして一声カァーといじわるそうな鳴き声を発したかと思うと、ぴょんとヒメの墓石に跳び移った。

 ねずは弾かれたように屋根を飛び降りて、ダッシュでヒメのもとへと向かう。
墓石の裏から、シャーッ!というヒメの鋭い威嚇の声が聞こえた。

 カァー! カラスはさらに頭を下げて、墓石の上からヒメたち親子をのぞきこんでいる。
爪をむきだしたヒメの右手がサッと伸びたが、カラスはひょいと頭を上げてやすやすと攻撃をかわし、
爪はむなしく空を切った。

やっと駆けつけたねずは、ヒメの背中側のブロックに跳びのって正面からカラスをにらみつけた。
背中の毛を逆立てて、せいいっぱいの怒りを表す。
ヴ~~~と低く唸り、いつでも臨戦態勢にあることをカラスに知らせた。
思わぬ援軍の出現にカラスは一歩あとずさり、しばらくのあいだ値踏みするように
二匹の怒れるメス猫たちを眺めていたが、やがて興味を失ったようにそっぽを向き、
バサバサと羽をはばたかせて飛んでいった。

 ねずは、ピンと緊張させていた四肢の筋肉をほんのすこしだけゆるめる。 でもまだ両耳を
ぴたりと頭につけて、いつでも攻撃モードに戻れる体勢だ。くいしばった下あごがわずかにふるえる。

カラスは怖い。奴らはその固く鋭いくちばしで容赦なく攻撃してくるのだ。
もしカラスが本気になって、しかも二、三羽が連係プレーで襲ってきたら、
元気なオス猫でもやられてしまうだろう。

すこしずつ緊張をゆるめながら下を見ると、ヒメが子供たちを抱き寄せてふるえている。
まだ目も開かず、耳だって聞こえていないはずの子猫たちも、緊迫した母親の気配を感じているのか、
ちいさくちいさく丸まってヒメのお腹の下にもぐりこんでいた。

「ここはアブナイよ。すぐにでも移らなきゃ」
ねずは言ったが、ヒメが動けそうにないのはねずにもわかった。

ヒメはふるえる声で「今日はまだ無理・・・」と言った。 「そう、明日なら、たぶん・・・」

     ~その62に、つづく~


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その62 [第12章 命がきえる]

 あくる日、そのまたあくる日と、
お彼岸の中日が近づくにつれてお墓参りの人間たちはますます増えるいっぽうである。

 今年はたまたまお彼岸の中日が月曜日にあたり、人間たちは土曜からかぞえて
春分の日の祝日となるお彼岸の中日までたっぷり三連休。ここ一週間はいいお天気にもめぐまれて、
家族みんなでぶらりとお墓参りに出かけるには絶好のお日和である。
というわけで、土曜も日曜もちいさな子連れのグループが楽しげなピクニック気分で、
とっかえひっかえ大勢やってきていた。

 とはいえ、ねずが観察したところによると、
お墓参りの人間が増えていることはそれほど大きな問題ではなさそうである。 ヒメの隠れている
お墓やすぐそばのお墓に参る人間さえいなければ親子が見つかる心配はほとんどないし、
彼らはさほど長居することもなく、二、三十分もすれば帰っていくのだ。
ただし、やっかいなのは子供たちである。 大人たちはわが家のお墓の掃除をし、
花やなんかを供えたらお線香を焚いて、ちょっと拝んでそれでおしまい。
墓地のなかを不必要にうろつくこともない。 でも、お墓の掃除や先祖のお弔いなんかに
てんで興味のないチビどもは、大人たちがお墓を清めているあいだ墓地のなかを
嬌声をあげて駆けまわり、墓石の列でかくれんぼしたりする。
実際に、ヒメのお墓のすぐわきで追いかけっこする子供たちもいて、ねずをヒヤリとさせた。

 それでも、お墓参りの人間たちは、ねずにとってご利益となることもある。
墓地の入口にはテーブルとベンチがあって、そこでお弁当やおやつを楽しむ家族もいたのだ。
ぽかぽかとあたたかいお昼どき、青空の下でのんびりと過ごしている人間たちは、
たいていはとても寛大な気分。遠巻きに様子をうかがいにきた猫たちを見つけると、
食べものを投げてくれる人間も少なくなかった。

「あらー、猫ちゃん、お腹すいてるの?」
「鉄火巻きのまぐろ、食べるかな?」
「わさびがついたままじゃ、ダメよ!とってあげなきゃ」
そんな会話のあと、ぽんぽんと放り投げられる刺身やかまぼこやソーセージや玉子焼きを、
目ざとく集まった数匹の猫が奪い合う。
ねずは、うまうまと一片のマグロと玉子焼きを頂戴することができた。

さすがにマグロはその場ですぐに食べてしまったのだが(まぁ、鮮度が命ですし)、
玉子焼きは食べずにくわえてヒメのところへこっそりと運ぶ。
人間や、さらにはハイエナのような他猫にも気取られないように、お墓の外周をひそかにまわった。

「ヒメ、これ、食べなよ」子供を抱いて横たわるヒメの口元にそっと置く。
「ありがとう」ヒメは礼儀正しくそう言って半身を起こし、
玉子焼きをすこしかじったが、半分も食べないうちにやめてしまった。

 子供を産んでから、丸三日。日を追うごとにヒメは元気を失っていた。 あれほど美しかった
毛並みはぼそぼそに乱れ、いたましいほどにやつれて、手足も力なく投げ出されている。
まだついたままのピンクの首輪がもうゆるゆるで、ちょっと首を傾ければ抜け落ちてしまいそうだ。

 子供たちにも変化があった。産まれたばかりのときは産毛のカタマリにしか見えなかった赤ちゃんが
三日もたつとひとまわり大きくなって、ちょっとは猫らしい姿になりつつある。
なかでもシルバーグレーの仔はひときわ大きく、動きがぐんと力強くなった。
まっ黒な仔も、シルバーグレーの仔と競い合うようにちゅくちゅくと元気にお乳を吸っている。

気になるのはヒメそっくりの銀鼠色の仔である。
もともとその仔だけ身体がちいさく見えていたが、三日たってもほとんど成長していないようだ。
見ていると、ほかの仔たちがお乳を吸っているあいだもその仔だけ乳首をくわえていなかったり、
くわえていてもお乳をしっかり吸えていないことも多い。
兄妹がもつれ合っているときも、その仔はじっと目を閉じたまま動かないでいるのだ。

「この仔、なんだか元気がないね」ねずはヒメに言った。
「そう、お乳を飲むチカラが弱いんです。でも、わたくしには、どうしてあげることもできない・・・
 わたくしがこんなふうに具合が悪いから、お乳の出もよくないようですし」
 ヒメは悲しそうに答える。そしてその仔の自分とそっくりの銀鼠色の産毛をやさしく舐めてやった。

眠っていた子猫は母の愛撫にこたえてくるんと寝返りをうち、
甘えるようにヒメの胸にしがみついたが、その動きさえもなんだかたよりない。

「ヒメもまだ、具合が悪いの?」
「ええ。でも、子供たちのためにしっかりしなくちゃ、と思っているのですよ。
 もうお産から三日たちましたからね。そろそろ子供たちが眠っているあいだに、わたくしも
 栄養補給にでかけなければいけない時期なのです。
 今日はねずさんからいただいたこの玉子焼きを食べて、明日の朝になったら、
 入口の餌場に行ってみようと思います」

ヒメはそう言ってせいいっぱいの笑顔を見せたけれど、
それでもヒメのコバルトブルーの大きな瞳には不安の色が隠しきれない。
自分がダメになること、それは、子供たちを死なしてしまうこと。
すくなくともあと四、五週間、自分がなんとか生きのびて子供たちにお乳を与え、
自力でゴハンを食べられるまでに育ててやらなくては。

ヒメは自分自身にそう言い聞かせながら、くじけそうな心を支えている。
この子たちを育てられるのは、自分だけ。野っぱらの猫には、孤児院も赤ちゃんポストもない。

 ねずはもう、かける言葉が見つからない。
こんなに弱っているヒメがひときれの玉子焼きを食べたからといって、いきなり元気になるとは
とても思えない。それでも母親としての強さを見せるヒメを、ねずはいたましく思った。

 そろそろ太陽が傾いて、一日が終わろうとしている。
いつのまにか人気がなくなってしまった墓地に、一羽、また一羽とカラスが集まりはじめた。
お墓参りの人数が増えるとともに、カラスの数も確実に増えている。
おとといの対決を思い出してねずは不安になった。

なんとしても寝ぐらを移さなければ。
明日、もしほんとうにヒメがすこしは元気になって、朝からゴハンを食べに行けるようなら・・・
いや、もしそれが無理でも、ねずが引きずってでも引っ越したほうがいい。
ねずは、またうとうとと眠りはじめたヒメの横顔を眺めながら、心のなかでそう思った。

 二匹の猫と、三匹の子供たち。
墓地の片隅のうらぶれた墓石の裏側にひっそり身を隠す五つの猫影を、夕闇がやさしく包みはじめる。
すっかり暗くなれば、もう、カラスには見つからない。
それでもねずの頭の上、まだうっすらと茜色がのこる
夕暮れどきの空を、気の立ったカラスたちがカァーカァーと騒ぎ立てながら旋回していた。

       ~その63に、つづく~


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その63 [第12章 命がきえる]

 気まぐれな春の低気圧が、オホーツク海から冷たい空気を呼びよせている。 昨日まで
あんなにぽかぽかとあたたかだった春の気配はどこへやら、一夜にして南下してきた冬の寒気が
上空の湿った空気とぶつかりあって、お彼岸の中日は早朝から冷たい春の雨になった。

細かいけれど密度の濃い霧のような雨が、しっとりとあたりを濡らしはじめる。
雨は、屋根のない落ち葉だまりで丸まっているねずやヒメや子供たちの身体にも舞いおりて、
細かな細かな霧のつぶとなってみんなの毛皮をおおっていった。

猫の毛は皮脂でくるまれているので、ちょっとした雨ならはじいてしまえる。だから多少濡れても、
どこか乾いた場所へ行ってブルブルッと身体をひとふりすればなんてことはないのだが、
それは乾いた場所へ行ければのお話。
まだ目も開かない子猫たちや、起き上がることさえままならなくなったヒメに、この雨はこたえた。

おまけにまるで冬に舞い戻ったような寒さ! お昼を過ぎても気温はまったく上がらず、
止むことなく降りつづける雨に毛皮の奥までじっとりと濡れてしまった身体からは
どんどんと体温が奪われて、ヒメの体力は限界に近づきはじめていた。

 この危険な状態は、子供たちにとっても深刻である。
生まれたばかりの子猫はまだ体温の調整がうまくできないので、大人の猫よりも
ずっとずっと寒さに弱いのだ。 母猫が元気なら、自分が傘となって子猫たちをすっぽりと抱えこんで
濡れるのを防ぎ、寒さからも守ってやれるのだが、いかんせんヒメにはもうその力が残っていない。
それでも子猫は兄妹あわせて三匹、
いまはまだ、ヒメのぬくもりと三匹のお互いのぬくもりとで温めあって生きていられた。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・
午後になるとだんだんと呼吸も浅く、意識もあんまりはっきりしなくなってきたヒメを前に、
ねずは慌てふためいている。 このままでは、ほんとうにヒメは死んでしまいそうだった。

ヒメが死んで、またパクやさくらママのときみたいに『ナンニモナクナッテ』しまったら?
そうしたら、子供たちはどうなるんだろう?
冷たく固くなった骸に抱かれていても、子供たちはきっと凍え死んでしまうにちがいない。
じゃあ、ねずが抱いて温めればいい?
それなら凍え死ぬことはないかもしれない。でも、お乳は?
ねずは、まっ白の毛におおわれた自慢のお腹をのぞいては見たが、
ここからお乳を出すなんて芸当はとてもじゃないけどできそうにない。
いまねずにできる精一杯のことといえば、わずかながらもヒメと子供たちの傘となり、
雨を防ぎ、ねずのぬくもりを分け与えることぐらいだ。

 寒い雨降りではあったけれど、お彼岸の中日をむかえた墓地は、お墓参りの人出が絶えなかった。
あちこちに傘の花が咲き、人間たちの足音が響く。
それでもお墓参り日和だったきのうやおとといのようにのんびりと長居することなく、
ご先祖さまの供養をすますと、みんな早めに帰っていくのだった。

午後も遅くになって、じくじくと冷たい雨がようやく止んだ。

ねずは親子の傘となってじっとりと濡れてしまった身体をブルブルとふるわせて、ほっとひと息つく。
ねずがおおいかぶさるようにしていたおかげで、子猫たちはほとんど濡れずに済んでいるようだ。
ヒメは頭も背中もずぶ濡れになってしまったが、それでもまだ身体はあたたかく
心臓はとくとくと鼓動している。 ねずは、濡れたヒメの顔をペロペロと舐めてやった。

「・・・ねずさん」ヒメがかすかな声をだした。目はもう半分しか開けられないようだけれど意識はある。
「なあに?」ねずはヒメの顔をのぞきこんだ。
「ねずさん、わたくしは・・・もうダメみたいです」ヒメはまるで吐息のように言葉をしぼりだす。
「この子たちを・・・生かしてやりたい・・・でも・・・」
そんなふうに言って、ヒメはまた生と死の境へと戻ってしまった。

 ねずは、悲しみに引き裂かれそうだ。 なぜ? そして、どうすれば?
混乱する心のなかに、金色の目が浮かんだ。 「そうだ、キン子さん!」ねずは思う。
もう、ひとりでは、どうにもならない。 キン子さんに助けを求めるのだ。
ねずはヒメのそばを離れて、人気のなくなった墓地を駆けだした。
ただでさえ雨の日は、暗くなるのが早い。もうあたりには夕刻が迫っていた。

ねずがまるでバネ仕掛けのように勢いよくスタートを切って、
お墓の入口の階段をひとっ跳びで降りようとした、まさにその瞬間!

バサバサと、背後で不吉な音がした。 グエッ、グエッとつぶやくような鳴き声がつづく。

まさか! ねずはダッシュの足に急ブレーキをかけて、うしろをふり返った。
まっ黒な影が、ヒメの隠れている墓石の上に止まっている。

カラスだ! まるでねずが去るのを見張っていたかのように、一羽の大きなカラスが飛んできて、
ヒメたちを狙っていた。アブナイ! ねずは、とっさに身をひるがえした。
一目散にヒメのもとへと駆け戻る。カラスは母猫が死にかけていることを知ってか、
平然と親子の近くに跳びおりて猫たちをつつきまわしている。

「やめろー!!!」
ねずが威嚇の声とともに跳びかかったのと、カラスがバサバサと飛び立ったのは、ほとんど同時だった。
ねずの牙はカラスの翼をかすめたが、風切り羽の先っぽが折れただけで、
まんまと空中に逃げられてしまった。 にらみつけるねずの頭上を、あざ笑うようにカラスは旋回する。

よく見るとくちばしになにかをくわえているようだ。

遠くてよく見えないけれど、銀鼠色のちいさなカタマリ。

ねずはドキッとした。 そして、足もとの親子に目を落とす。
虫の息で横たわるヒメのお腹には、産毛のカタマリがふたつしかなかった。

ねずは、思わずその場にへなへなとくずれおちた。 涙がわいて、あふれでる。
大切な大切なヒメの子を、カラスにさらわれてしまったのだ。
いちばんちっちゃくて弱々しくて、ヒメそっくりだったきれいな子を。
ねずが守ってやらなければならなかった子を。 ねずにしか守ってやれなかった子を。

ねずが泣きじゃくっているあいだに、ヒメは意識を取り戻すことなく、静かに息を引き取った。
残されたふたりの子供たちは、まだかすかにぬくもりが感じられるヒメのお腹にへばりついて、
もうお乳がでることのない乳首をしゃぶっている。ねずは、ヒメからなんの気配も感じられなくなった
ことでその死を悟り、あの時のまだらの仏っさまの言葉を思い出した。

「けっして死を恐れてはならぬ。死は、終わりではない」と仏っさまは言った。
「今生での死は、御仏さまのもとへ帰り、もういちど新たな命として
いつの世かに生まれ落ちるための、長い長い眠りの時間なのじゃよ・・・」と。

ではヒメは、いつの日にかまた目覚めるのだろうか?
・・・もしそうならば、その時ヒメは、きっと立派に成長した子供たちに会いたいにちがいない。

ねずは、前足で涙を拭いた。 そして、四本の足ですっくと立ち上がった。
いまはもう、めそめそと泣いている場合ではない。
母猫のぬくもりも、お乳も失ってしまった赤ちゃん猫を生かす方法を見つけなければ。
一分でも、一秒でも早く。子猫たちが凍えて、命を落としてしまう前に。

      ~第13章に、つづく~


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