その17 [第4章 試練]
「やぁ、ねずは大人しいね」先生は、ねずの首筋をつかんでぶらさげたまま言う。
けっして大人しくしたいわけではなかったが、首筋をしっかりつかまれていると、
身動きなんてできやしない。それに、この極限状況では、とりあえずジタバタ騒がず、
運命の流れに身を任した方が得策に思えた。
先生と呼ばれているこのおじさんは、そんなに悪い人にも見えない。
「毛づやもよくて、健康そうだな。これなら、手術の後も大丈夫だろう。
吉沢さん、そっちのキャリーケースに入れるよ」
吉沢さんと呼ばれた白衣の女性は、バスケットのようなケースの扉を開けて待っている。
先生は、その小さなケースにねずを入れて扉を閉め、床に置いた。
「さて、お次はぶち子ちゃんだったっけ?」先生は、また猫箱にかがみ込んだ。
床に置かれたキャリーケースのなかから、猫箱のなかのぶち子の様子がうかがえる。
「マズイ」と、ねずは思った。
黒い方の横顔をひきつらせて、ぶち子は完全に固まってしまっている。
こちらからねずが見ているのさえ、まったく眼中にない様子だ。
その目は完全に空をさまよい、もう理性のカケラも感じられなかった。
・・・あれは、むきだしの野生と化した猫の顔だ。
「先生ガ危ナイ」ねずはそう思ったが、いかんせん、それを知らせるすべはない。
先生がぶち子の背中にそっと手を伸ばした瞬間、ぶち子はまるで山猫のような敏捷さで
猫箱を飛びだし、先生の身体にぶつかりながらも診察室の床に転がりでた。
診察室に飛びだしたぶち子の狂乱ぶりは、ねずでさえ目を覆いたくなるほど。
「ぎぁおぅ、ぎゃおぅ」とわめきながら、床から診察台へ、デスクから壁へ、
診察室をところせましと跳ねまわる。・・・その動きったら、まるでムササビ!
興奮のあまりオシッコさえも飛び散らせながら空中を跳びまわり、
あげくには、脱出を試みて透明な窓ガラスに体当たりを繰り返した。
ねずも腰が引けるぶち子のご乱行だったが、それでも、先生は敢然と立ち向かった。
先生は、窓ガラスにぶつかって落ちてきたぶち子の首筋をすばやくつかもうとする。
ぶち子は身をくねらせて何度も逃れたが、とうとう最後には背中の毛皮をつかまれてしまった。
でも、ざんねん・・・猫を押さえるのは背中じゃダメなんだよね、首根っこじゃないと。
山猫と化したぶち子は、するするっと首をまわして、
背中をつかんでいる先生の手にがっぷりと噛みつくと鋭い牙をめりこましたのだ。
「あっツ!」
先生の手から、真っ赤な血がしたたり落ちた。
でも、そこはさすがにベテラン獣医である。
ぶち子に手を噛ませたまま、先生はもうひとつのキャリーケースにぶち子を放りこんだ。
先生は憮然として診察室をあとにし、
なすすべなく見守っていた川嶋さんと吉沢さんは、ほっと息をついた。
「元気のいい猫ちゃんで・・・」吉沢さんが、場をつくろうように言った。
「すみません・・・」川嶋さんはちいさくなっている。
「では、明日の朝、迎えに来ますので。先生にはよろしくお伝えください・・・」
川嶋さんはそそくさと帰っていった。
山猫ぶち子は、ねずの隣のキャリーケースのなかで、はぁはぁと犬のように息を荒げている。
ねずは心臓がバクバクしていた。
こういっちゃナンだけど、ぶち子って、ほんとに往生際が悪い。
~第5章に、つづく~
おはようございます。
家のニャンのことをちょっと
思い出しました。
by かずあき (2013-03-03 04:47)
只今、最初から全部一気に読ませて頂きました。
昔ながらのお出入り自由な生活の猫を傍らに置きながら。
この子にもここにたどり着くまでのドラマがあったんだよね、
なんて思いながら。
文才のない私には書けませんが・・・。
今後のお話しが楽しみです。
by tenten (2013-03-03 13:59)
ぶ、ぶち子ちゃん。。。
彼女が怖さが、ヒシヒシと伝わってきますぅ~。
エロの季節では男共に追っかけられ、今また新たな恐怖が襲ってきている。
うーむ。生きるって、 試練だ。
すまなそうな窓の人のこと、嫌いにならないと、いいいな。
by morichan (2013-03-03 17:23)
あははー^^ やったね、ぶち子ちゃん!!
必死の抵抗も、ベテランドクターの前ではあえなく撃沈…
まぁでも こわーい鬼(ゴメンナサイ、先生)に一矢報いたね!
ねずもドキドキだったね。見てる方がハラハラしちゃう(^_-)
by ミケシマ (2020-05-26 17:08)